主人公の条件〜コクリコ坂によせて〜

映画だとか小説だとかの感想をある友人に話す時、どうにも論理的に話すのが苦手だったりする。
コクリコ坂の時も主観的に気になった所を列挙した後、その中身を突っ込まれると言いよどんだり論理破綻したりと申し訳ない事態になった。
特にキャラクターに関する話をしていると、「映画のキャラクターに嫉妬しているの?」と「それは主人公だからでしょ?」という二つの質問が個人的難関として立ちふさがることが多い。論理的に説明したいと思いつつ、記憶力の限界や疲労で終わるばかりなので、ここで一つ主人公について思うところを書いてみたいと思う。*1

結論から言えば主人公の条件など、ないのだと思う。
そこに至るまでの道筋をこれから追っていきたい。
・主人公の定義
 書くにあたってWikipediaを見てみたところ、それなりに場合分けされて記述されている。それを見てみてもわかるように、主人公という言葉の定義はあいまいである。
ただ、今回は「物語を解決するもの」としての主人公が、語りたいものに近い。
 

・「主人公補正」の問題
 今回の話における一番の問題点は「主人公補正を読者は受け入れるべきなのか」ということだった。
 主人公補正は、主人公だから強い、主人公だから問題を解決する、という論で、物語を進めるためにそれは仕方ないとされる。
 例えば100人が戦い、そのうちの1人が勝ち抜く物語であった時、負けたとき主人公は主人公でなくなる…… 結果的にそうなってしまう。そんな物語においては、主人公に通常の行動をおこなわせるわけにはいかない。
これだけならば主人公補正とは思わないかもしれない。しかし、この主人公が「身長140cm」の「美少女」かつ「武骨な大剣を振り回す」「元王女」だったりすればどうだろう。
極端な例だったかもしれないが、もしそこで「この主人公に補正が入っている」と思い、”物語上は”仕方ないと思える場合もあるかもしれない(たとえば、もしそれが孤独な王女の戦いの物語であるとすれば)。
ただこの場合、物語自体が悪い、と考えるしかないだろう。*2


・主人公の「強さ」とキャラクター性
 確かに物語には主人公補正と言われて仕方ない部分があるかもしれない。「問題を解決する主人公」の物語には、問題が存在し、それは常人では解決不可能である。不可能なことを可能にする、そんな物語における「強さ」が物語の構造上求められる。
しかし、「強さ」ばかりが際立つ主人公はキャラクター性を失っているように思う。人の存在に「弱さ」は離れられないものだ、という考えが私の中にあるためだ。 
 物語を変えてしまう「強さ」だが、そこには限界が存在する。ありとあらゆる問題の解決を主人公に求めてしまえば、まるで神の如き「強さ」を持たざるを得ない。そしてそれは物語として魅力的ではない。
 その限界、「弱さ」はキャラクターを人とするために必要である。なにかは出来るが、また別の何かはできない。
すべての人を分析すれば、強さと弱さが平均になる、なんていうことをいっているわけではない。実のところ、強さと弱さは表裏一体である。ある時に「強い」ものが、またあるときには「弱く」……
時に矛盾のようで、アンバランスであること、それも実に魅力的なキャラクターの条件であると思う。



そして、主人公の条件とは? いろいろと思うところがあり、書いているうちにも思うことがでてきたのだけれど、時間をかけすぎてしまったので、今思っていることを書こうと思う。
神でないこと、ではないだろうか。 

*1:「キャラクターに嫉妬しているの?」というのはとても難しい問題なのじゃないかと思う。主観的に言えばそんなつもりはないが、客観的にはそう見えなくもない。説明の仕方の問題かもしれないが、どうすればいいのかわからないでいる

*2:自分は主人公補正というものはからかいの単語だと考えていた部分があった。この部分に差があり、驚きの感情が沸いたことを覚えている