西の天狗

大学二年の夏だったか秋だったか、高尾山に一人で登りに行った。

片付けない作家と西の天狗

片付けない作家と西の天狗


京王線で高尾山までは割と安い。数十分たてば景色はすっかり変わって、終点高尾山口の駅は人は少ないのにホームはきれいで大きいという観光地独特の風情があったようにも思う。当時はあまり考えなかったけれど。


高尾山のお土産が打っているところまでも、少しあるくのだけれど、妙な時期の妙な時間に行ったものだから人はすくなかった。お昼の時間が終わるくらいの頃だった。山に登る前にとろろそばを食べた。とろろの上に青のりがのっていて、ただ高かったし、一人で食べるのが気恥ずかしくてすぐに店から出て行った。


高尾山にはロープーウェーなんかもあったけれど、上に行くのが目的ではなかったので、山道を登り始めた。この辺りで失敗に気が付いた。高尾山には人がいっぱいいたのだ。
自分は人がいない場所に行こうとして、高尾山にたどり着いたのだった。


高尾山にまで行こうとした理由は大した理由じゃない。ただ沈んだ気分の時に、大学の校舎を歩いていると、友人や知り合いが皆楽しそうに誰かと一緒にいたりするのが見えたのだ。それから京王線でいつもと逆方向に向かった。衝動的だった。


靴も普段履いているものだし、鞄の中には教科書なんかも入っていた。とはいえ、上るときの苦痛は心地よいくらいだった。なにをやっているのだろう、などといったことは考えずにただ一心に山を登った。
高尾山は不思議な山で、登れば上るほど人が増えていった。


結局一人に慣れたのは下山の時だった。わざわざ遠回りした道にはベンチがあって、そこに座ると疲れがどっとでて、よこになった。山の中で横になるのが楽しかったのだけれど、はたから見ればおかしい人だったのは間違いない。
この場所で一人心を落ち着かしたりしたのだけど、もう記憶がずいぶんとあいまいになっている。


後残っている記憶は、途中で食べた団子がおいしかったこと、リフトが割と怖かったこと。帰りの電車は帰りのラッシュに入っていて、ずいぶんと混んでいた事くらいだろうか。
こうして書くとただの奇行だけれど、実際あれでなにかが楽になったりもしたのだと思う。
ただ若いからできたというのはあるかもしれない。今なら次の日はずいぶんと筋肉痛になっているはずだ。